10.糖尿病に苦しむ人のために


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 ここで示す“糖尿病に苦しむ”と云うのは,血糖コントロールがうまくいかない,合併症で辛い,と云う事ではありません.糖尿病の存在がその人の人生に及ぼすものは大きいと考えられていますから,本当に糖尿病のある人生と云うものは苦しさに満ちているのか,他に道はないのか,と云う事を考えて行こうとしてみたいのです.

楽観的に処理するのはいいことなのか?

 糖尿病があっても血糖コントロールさえしていれば合併症も出ないし普通の人生を送る事が出来ると云うのは本当の事ではありますが,果たしてそれで完全に自分として納得できているのでしょうか.血糖コントロールする為には食事制限をしなければならない,運動療法をしなければならない.場合によっては自らの体に注射しなければならない.そうして初めて血糖コントロールを得ることが出来る.しかしそれを守ってもコントロールが得られなくて網膜症や腎症になる人もいる.これを理不尽と云わずして何でありましょうか.これをあたかも,それを目指していれば素晴らしい人生が送れるのだからみんな頑張りましょうと云う奇麗事で隠蔽してしまっていいのでしょうか.  糖尿病専門医がこんな事を云うのははばかられますが,それでも尚且つ糖尿病のある人生とはそうでない人に比べて幸福とは云えない.しかし早とちりしないで頂きたいのが,幸福=いい人生ではないと云う事です.あえて9章では“糖尿病であるからこそ豊かな人生である”と書いた事に関係があります.にわかに承服したことでしょうが少しずつ説明させて頂きたいと思います.

他人との比較において

 糖尿病でない人に対して好きなものを食べられない自分は何と不幸であろうか.医者はそれさえ守っていれば,糖尿病でない人と比べても長生きすら出来る.一病息災みたいな事を云う.なんか言いくるめられたみたいだ.そんな事云っても好きなものを好きなだけ食べられない,したくもない運動もさせられて長生きしたって面白いとは思えない.そうです.それは全然間違いではない.不条理なのです.若くしてIDDMになって日に何回も自己血糖測定をし,インスリンを注射し,必死に合併症が出ないように自己管理をする.公平な訳が無い.勿論他の重篤な疾患に比べればそれ位は何でもないと考える事も出来ましょう.でもそれは欺瞞でしかない事も自分は判っている.自分に言い聞かせているに過ぎないと云う事も判っている.しかしそうでも考えないとその不条理に耐えられない,と云うのが本当の所ではないでしょうか.ここでの解決法は一つしかないように思います.それは糖尿病である自分を受け入れる事.不条理であり不公平である事を意識すること.表層的な意味においての就職差別等は社会的には許されません.しかしながら他人があの人は糖尿病なんだから,と云う刺すような目線や酷い時には言葉はどうしようもないのです.世界中に糖尿病の正しい知識が行き届けばそういう考えは徐々に薄まっていくかも知れませんが,一番重要なのは,今まさに目の前にいるその人がそういう態度をこの私に示す事です.そこであなたは“そういう糖尿病に対する考えは間違っている”と主張すればいいのです.啓蒙運動するのも勿論いい事ですがそれがいつまでかかるのか.すぐに自分に役立つのか.啓蒙運動は続けていかなければいけませんがそれですぐにあなたが救われるわけではない.  余りはっきりいうのはなあ…わざわざ事を荒立てる事もあるまいと考える方もおられるでしょうが別に喧嘩せよと云っているのではない.ただ一般論を振りかざさずに自分の立場を云えばいいと云う事です.云わなければわかりません.総ての人が糖尿病専門医ではないのです.

ユーモアだけでは生きていけない

 ユーモアは一時的に問題をすりかえたりする事の出来る非常に有用な方法です.例えば自らオレって糖尿病なんダゼ,と云って自分をネタにして悪びれる事は精神衛生上非常に役立つ事です.うまく気分転換に使って下さい.徹底的に楽観的に行くのもそれはそれで素晴らしい事です.しかし必ずしもこれだけで総て乗りきれる程人間関係は単純ではないし,乗りきれない,それをうまく使うことの出来ない人のために私はこの章を書きたいのです.

不幸が悪いのか,幸福がいいのか

 一般的にこんな事を問えばたちまち非難囂々.実はこんな事を書くと糖尿病治療に関わっている善意溢れる関係者から酷く非難されると思っております.日本糖尿病学会を除名されたりして(笑).まあ私みたいなチンピラ専門医の云う事は誰も気にも止めないでしょうが.  さて糖尿病であると云う事は一般的な意味で言えば“不幸”です.糖尿病と上手く付きあえば幸せな一生を送ることが出来ます,とよくパンフレットに書いていますね.幸福の基準も人それぞれではありますが,そんな簡単に“幸せな一生”等とぺらぺらの紙切れでよくも言いきれるものであるなあ,と私は少々うんざりしてしまいます.こりゃ一種の幸福病ですね.幸福である事が至上でそれを誰も疑わないし,疑うとたちまち非難が飛んでくる.何とやりにくい世の中ではありませんか.勿論それをそのまま受け取って納得してしまえば楽であるのですが,誤魔化しにほかならない.でもそれでいいと云う人にまで私は違う!とは云いません.私が今話したいのは,そう云う文章を読んでも全然納得できない人に対してです.非常に重い事です.人生に重くのしかかる問題をさらっと躱さずに生きていこうと思わない人,もしくはさらっと躱せない人にメッセージを送りたいのです.そんなのたかが人生じゃんと言いきれる人にも必要のない事でしょう.勿論楽しいことは一杯ありますからいつもいつも頭を抱えて考え続ける必要はさらさらない.ただつまづいた時に考えるだけでいいのです.  結論を言います.不幸であることは必ずしも悪い事ではない.不快である事も悪い事ではない.それらは深くあなたの心を切り刻み,時には涙を流させる事があるでしょう.でもそれはあなたの人生を深く豊かにする.非常に味わいのあるものにする.味わう事にはじめは苦痛を伴うかも知れませんが,必ずやすっきりした気分になれると信じています.
 この歳になって私も不条理を少しは噛みしめる事が出来るようになりました.嫌なことがあった時,勿論私は異常に腹が立ち,悲しくなり嘆きます.そして何とかこの状況を抜け出たいともがき苦しみます.しかし事実は肯定するしかない.厳然と事実はそこに存在するからです.それを解決することは殆どの場合不可能である事も気づきます.それでも死なずにいる私はなんなんでしょうか?もうこれは人間の意志であるとしか言い様がない.この事を説明する事は私にはとても出来ないのですが,何となく了解する事は出来る.それだけの理由で私は生き続ける(そしていつかは死んでしまう)のです.本当に不思議ですね.意志によって生かされていると云うと何だか宗教くさくなりますがそうではなさそうです.宗教は絶対的な存在に我が身を丸投げ出来る態度の事です.それが出来る人はそれも良いでしょう.出来ない人は不条理を受け入れつつ生きるのです.非常に人間くさいですね.
 そう.悩める糖尿病者であるあなたはそれを受け入れる事,そしてそれを自分として認める事です.すると解放されたような楽な気分になれる事があると思います.本当に重たいと思われる生き方ですが全く納得のいく生き方であるように私は思えます.
 ここでそれでは豊かであると云う事がいいのか?と云う問いが聞こえてきそうですが,そもそも“いい”事がいいのでしょうか?と云う答に留めさせて下さい.

絶対勘違いして欲しくないこと

 以上,判ったような事を書いてしまいましたが一つだけ絶対に勘違いしてはいけない事.これだけは言わせて下さい.糖尿病でありそれを受け入れる事は非常に大事なのですが,解決出来ない事があったとしても治療を放棄してしまう事は止めて欲しい.それは単に邪魔臭くなっただけの怠慢であるとさえ言えます.そこには生きる事へ対する停止があり非常に受動的な豊かでない人生なのです.何で?何で?と考えて下さい.何で自分だけ食事制限なんかしなくちゃいけないんだ(これは血糖コントロールであるとか医学的な意味ではありませんよ,念のため)と一度問い詰めて下さい.上記したように結局そうするしかないんだ,と云う結論に達してしまうかも知れない.でも深く考えている人はそこから自分の生きる意志を感じられるような気がします.
 これでも何か言い足りないのは判っています.残念ながらどうしても私の表現力ではあらわし切れないのです.ただ自分がそう感じられるだけなのです.そう云う意味では中途半端で誠に申し訳ないのは判っていますが感受性のゆたかな人には必ず判って貰えると思って書きました.何回も書きますがこの章は総ての糖尿病の人にあてはまる訳ではありません.不条理を感じていらっしゃるに何かのヒントになればと云う思いのみです.

おまけ:カラ回りする言葉

 先日公的機関における糖尿病教室において,ある司会者が言いました.
「皆さん,今日は本当にお忙しいなかご苦労様です」…ここまではいい.
「今日は有意義な勉強をして頂いて,皆さんには本当に素晴らしい人生を送って頂きましょう」
ここまで聞いて講師に呼ばれた私は鼻白んでしまいました.勿論単なるお決まりの司会者のオープニングであるのですが,もし私が受講者であったならムカムカした事でしょう.素晴らしい人生等,あなたに決めて貰う必要はない,と.単に糖尿病の知識を得るために来ただけだ.受講者は当然そんなことは聞き流しておられましたが,それはその言葉に意味がないと云う事に他なりません.そんな事がそこに限らず糖尿病教室には多すぎます.確かに決まった時間だけでは決められた内容を消化するのが精いっぱいで,司会者が公務員であるならば決められたスケジュールを厳守しなければならないのでその立場も判らないでもない.私は決められた時間講義をし,その後質疑応答の時間を設けいくつかのやりとりがありましたが,一人ひとりの生の声が聞けて本当に楽しい.それを時間が来たのでと遮られたのは非常に残念でした.普段多忙に追われてなかなかじっくり診察室で患者さんの話を聞く時間がない私としては,ここぞとばかりはりきっており,受講者の方も真剣に質問されていたので余計に残念です.今度講義依頼を受けたならば,そう云った要望をしてみようと思っております.無理かな?いややってみましょう(^o^).私って,変?ではないですよね!!!!!!変かな?


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